武漢/中国 ~「三国志と桜公園」で有名な歴史の町・武漢~
武漢市は中国中部の平原地帯にある湖北省の省都で、長江(揚子江)とその最大の支流である漢江との合流点に位置する商業・工業都市です。かつては「百湖の市」と呼ばれ、市内には数多くの湖があり、武漢市の水域面積は全市面積の約4分の1を占めています。「湖北」という名称の由来は、中国の淡水湖として2番目に大きく長江に繋がる洞庭湖の北にある省が湖北省、南にある省が湖南省ということで名づけられています。武漢市東部にある「東湖桜花園」は日本の弘前公園、ワシントンD.C.のポトマック公園と共に世界三大桜公園と呼ばれています。満開になる3月中旬には、約1万本の桜が見事に咲き誇る素晴らしい景観で、中国国内・海外から多くの観光客が訪れます。ここには、周恩来夫人である鄧頴超(とう・えいちょう)女史が1979年に訪日の際、田中角栄元首相から故・周恩来首相に対する感謝の意を込めて贈呈された78本の桜の木も植えられています。武漢は日本との歴史的な繋がりが感じられる都市でもあります。
- 三国志「赤壁の戦い」
映画『レッドクリフ』でも有名な「赤壁の戦い」は、三国志における多くの戦いの中で最も有名な戦いの一つといわれています。紀元208年に孫権、劉備の連合軍と曹操軍が戦った場所は武漢から長江中流沿いに車で1時間半ほどの湖北省・赤壁市にあり、現在も長江沿いの崖に赤壁と書かれた石の彫刻が残っています。中国の北方地区の平定に成功し、数十万ともいわれる大軍を率いて南下した曹操軍に対し、勢力が弱い劉備軍はひたすら逃げますが、多くの領民を連れていたため、ついに曹操軍に追いつかれてしまいます。辛うじて逃げ延びた劉備は孫権を説得し、同盟を結成します。曹操軍は中華統一を掲げ強い勢力で攻めてきますが、これを迎え撃つ連合軍は、大兵力を有する曹操軍に立ち向かうには火計(舟を使った火攻め)しかないとして戦略を練ります。軍師・諸葛亮の策略が功を奏し、曹操軍は30万もの兵を失い、大惨敗します。この戦いは、広大な中国が魏・呉・蜀の三国の時代に入るきっかけとなりました。日本では「天下三分の計」として知られています。この赤壁という石の彫刻は連合軍が勝利した際、勝者側の名将であった周瑜(しゅうゆ)が書いたと言い伝えられています。湖北省には、劉備が諸葛亮を軍師として迎え入れるため、礼を尽くし三度足を運んだ「三顧の礼」の舞台である諸葛亮旧居跡(湖北省襄陽市)などが今でも残っています。武漢は三国志に度々登場する歴史ある町でもあります。
- 「武漢長江大橋」
武漢長江大橋は、1957年に武漢市の漢陽区と武昌区を結ぶため長江に架けられた中国で初めての鉄道・道路併用の大橋(全長1,670メートル)です。新中国成立後、ソビエト連邦の技術協力で作られました。半世紀以上経った現在も使用されており、長江の壮大な風景を見ながら大橋を歩いて渡ることもできます。中国の新幹線(高速鉄道)が開通するまでは、北京から広東省含む南の都市への移動は必ずこの武漢長江大橋を通る必要があり、武漢が交通の要所といわれるゆえんです。近年の武漢の経済発展とともに、現在では長江には9本の大橋と2本の地下トンネルが開通しています。
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