米大統領選は反自由貿易にシフト、だが労働者の真の脅威は第4次産業革命か

2016年05月09日

米州住友商事会社 ワシントン事務所
渡辺 亮司

 「有権者は技術革新やグローバル化に対して投票できない。しかし貿易については投票できる」。2016年4月、ワシントン市内で開かれた会合で米通商代表部(USTR)マイケル・フローマン代表はこのように語りました。16年米大統領選では、党を問わず長年米政権が推進してきた貿易政策に対し、経済的不安を抱える労働者が怒りをあらわにしました。こうした不安をもたらしている製造業の雇用縮小の背景には輸入拡大など貿易の影響もありますが、技術革新、グローバル化による競争の激化など政策を超えた時代の趨勢(すうせい)もあります。しかし、大統領選の有力候補は票に繋げることが可能な貿易政策をスケープゴートとして利用し、反自由貿易(反FTA)の主張を強めています。次期大統領は政権発足後、労働者の不安の解消を図るには全ての責任をこれまでの貿易政策に押し付けず、技術革新に伴う教育政策、労働政策、産業政策など包括的アプローチが必要となるでしょう。

 

 

◆反FTAにシフトする大統領選

フロリダ州で行われたトランプ候補の集会(筆者撮影)
フロリダ州で行われたトランプ候補の集会(筆者撮影)

  大統領選では、共和党はドナルド・トランプ候補、民主党はバーニー・サンダース候補が経済ナショナリズムを訴え、米国の貿易政策の議論を反FTAに大幅にシフトさせています。16年5月上旬のテッド・クルーズ、ジョン・ケーシック両候補の共和党予備選撤退を受け、同党の指名獲得が確実となったトランプ候補は反FTAを政策の中枢に掲げ、特に白人労働者階級の支持を集めています。米ピュー・リサーチ・センターの世論調査(16年3月実施)によるとトランプ支持者の約67%がFTAは米国にとって「悪いこと」と回答、「良いこと」と答えたのは約27%に過ぎません。一方、民主党の指名獲得がほぼ確実視されているクリントン候補もFTAに対し批判的な立場を表明するようになっています。クリントン候補は国務長官時代、外交の軸足を中東からアジアに移すリバランス政策の一貫で環太平洋経済連携協定(TPP)を重視し、TPPを「貿易協定のゴールドスタンダード(絶対標準)」(12年11月)と呼び、強力に推進していました。ところが、大統領予備選でサンダース候補の反FTAの主張に引っ張られ、15年10月にはTPPの現状の内容では満足していないことを表明し、それまでの意見を一転しました。

 

 米ブルームバーグの世論調査(16年3月実施)では「米国の雇用を守るため、輸入品に対してより厳しい規制を導入すべき」と回答した割合は約65%にも達し、国民は特に輸入に対する抵抗感が強いことが理解できます。大統領選でいずれの有力候補も反FTAの姿勢を示している背景には、輸入によって影響を受けやすい製造拠点が選挙戦の激戦州に集中しているからのようです。ジョージタウン大学のブラッドフォード・ジェンセン教授は「国際貿易の勝者と敗者:米大統領選の投票への影響」と題する報告書(16年1月発行)の中で、大統領選で保護主義を訴えることは理にかなった戦略であると分析しています。同報告書は、高度技術を要する製品・サービスの輸出増は現政権党への投票を増やす一方、高度技術を不要とする製品の輸入増は現政権党への投票を減らすことを証明しています。大統領選の激戦6州(アイオワ、ニューハンプシャー、ノースカロライナ、オハイオ、ペンシルバニア、ウィスコンシン)はいずれも高度技術を不要とする製品の製造拠点が集中しています。従って、大統領候補は勝利のために保護主義政策を訴えるインセンティブが働いているとジェンセン教授は指摘しています。

 

 さらに最近の研究で輸入拡大によって職を失った労働者にもたらす被害の度合いはこれまでの想定以上に深刻であることが新たに判明しています。マサチューセッツ工科大学(MIT)のデービッド・オーター教授などが執筆した「中国ショック」と題する報告書(16年2月発行)は、人材の流動性を想定している経済仮説と実態は異なり、輸入拡大によって失業した労働者は新たな産業の職に容易に就くことができていないことを証明しています。同報告書は1991年以降、中国からの輸入増によって競争に負け製造業雇用が失われた地域では、労働者は新たな職を見つけることができず10年以上にも渡り失業率は低下せずに生涯賃金が減っている現象を明らかにしています。経済仮説では貿易によって職を失った労働者は、貿易によって新たに生まれる他の競争力のある産業の雇用に吸収されていくと考えられていました。しかし、労働者は新たな職のために引っ越すことを拒み、異なる産業のスキル取得も容易ではなく経済仮説通りではありませんでした。例えばこれまで何十年も工場で組み立て作業に従事してきた50~60代の労働者が失業した場合、国際的に競争力がある金融やハイテク業界などでパソコンを使うような新たな仕事に就くのは難しく、スキルを不要とする仕事に就くことになり結果的に工場より低い賃金になるケースが多々あるようです。従って特にFTAを強く批判するトランプ候補やサンダース候補は労働者階級の経済的不安をうまく汲み取っていると言えます。

 

 

◆製造業縮小の背景に技術革新:第4次産業革命は労働者にとって今後の脅威か

米国の製造業雇用者数と実質生産量の推移(出所:米労働省労働統計局、米連銀データより米州住友商事ワシントン事務所作成。https://www.scgr.co.jp)

 近年、米国の製造業雇用は減少傾向にあります。その一因として前述の通り輸入拡大の影響は否定できません。しかし、それ以上に無視できないのが技術革新です。製造業雇用者数は減少傾向にある中、製造業の全生産量は増加傾向にあります(図参照)。この背景には技術革新とともに生産性が向上し、機械が労働者に置き換わりつつあることが大いに影響しています。アメリカン・エンタープライズ研究所(AEI)のジェームズ・ペソコーキス研究員は、中国の人件費が高騰する中、賃金差によって雇用が米国から中国へ流出する「中国ショック」はもはや過去のものとなりつつあると指摘しています。ペソコーキス研究員は、今や米国の製造業雇用の脅威は技術革新であり、米国で製造業を回帰させることは米国のロボットが中国のロボットと競って勝つことだと主張しています。同研究員によるとアップル製品の組み立てを中国で行う台湾企業のフォックスコン(鴻海科技集団)は今後3年間で約70%の労働者をロボットに置き換えることを望んでいるとのことです。今日、世界は情報通信技術や人工知能といった新たな技術によって生産現場などの効率化が図られる第4次産業革命を迎えています。今後、米国の製造業は省人化や無人化が進み製造現場に携わる労働人口は減少の一途をたどるでしょう。オックスフォード大学マーチンスクール新経済思想研究所のカール・ベネディクト上席研究員などの「雇用の将来:コンピューター化はどれだけ雇用に影響を及ぼすか」と題する研究論文(13年9月発行)は、今後20年間で米国の約47%の雇用がオートメンション化によって失われるリスクが高いと予想しています。これまでの人類の歴史で技術発展は農業から製造業まで雇用形態を劇的に変えてきました。第4次産業革命の影響はまだ予測不能だが、技術革新が製造業雇用の縮小をもたらすことは確実視されています。

 

 

◆逆戻りしない製造業雇用の減少傾向、労働者救済策と次世代人材育成が重要に

ワシントンDCの集会で反エリート層などを訴えるサンダース候補支持者(筆者撮影)
ワシントンDCの集会で反エリート層などを訴えるサンダース候補支持者(筆者撮影)

  米国の製造業の雇用人口の減少傾向は今や逆行できません。トランプ候補やサンダース候補をはじめ有力候補のいずれも主張する保護主義政策は選挙で票を集めることはできても実際には労働者の経済的不安の解消には繋がらないでしょう。グローバル化が進む中、米国が引き続き競争力を保つには比較優位のある産業で投資が増え、同産業のスキルを保有する人材が豊富にいる必要があります。従って国内で競争力の低い一部の製造業からハイテク産業など競争力の高い産業に人材がシフトすることが望まれます。これらを考慮した政府による戦略的なFTA締結は将来の米国経済全体にメリットが大きいことが予想されます。例えば、TPPではインターネットのルール作りに米国は影響力を発揮し、21世紀に米国が競争力を増す効果が期待されます。しかし、オーター教授の分析で判明したように、今後、技術革新およびFTAは負け組の一部の製造業で職を失った労働者に大きな被害を与えるでしょう。15年7月、オバマ大統領は貿易促進権限(TPA)と合わせて貿易に伴う経済的な損失を補償する貿易調整支援(TAA)の法律を成立しました。TAAでは失業手当、職業訓練、転居費用の補助などを提供しています。特に職業訓練については米国はまだ改善の余地があるようです。前述のワシントン市内の会合でピーターソン国際経済研究所ギャリー・ハフバウアー上席研究員は「輸入によって失業した労働者に対し米国政府が提供する職業訓練は先進国の中でも最も遅れをとっている」と指摘しました。今後、第4次産業革命に伴い米国政府は取り残される一部の製造業の労働者をTAAを通じて支援強化を図る必要があるでしょう。そのためには商務省、労働省や教育省などが省庁を越えて協力し、特に若い世代には今後伸びる産業に活かせるスキルを取得する支援や教育を充実する取り組みが重要となると思われます。

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