タイの政治経済情勢
2015年09月11日
住友商事グローバルリサーチ 国際部
石井 順也
1. はじめに
2015年9月6日、タイの国家改革評議会は、憲法起草委員会が起草した新憲法草案を否決した。これにより、新憲法に基づく総選挙の実施は2017年春頃までずれ込むことになった。
この新憲法草案の採決に至った経緯と今後想定される民政復帰に向けた政治プロセス及び、これを踏まえたタイの政治経済情勢の現状と今後の展望について解説する。
2. 民政復帰に向けた政治プロセス
(資料1-(1))タイでは、2014年5月、インラック前首相が憲法裁判所の違憲判決により失職した後、軍がクーデターを宣言して国家の全権を掌握した。その後、実権は、プラユット陸軍司令官を議長とする国家平和秩序評議会(NCPO)に委ねられ、NCPOは、民政復帰に向けた3段階のロードマップを発表した。
同ロードマップは、第一段階として、2014年7月に暫定憲法を公布し、暫定内閣と暫定議会を設置した後、10月に「改革評議会」を設立し、第二段階として、2015年7月に恒久憲法を制定し、第三段階として、3か月後の10月頃に総選挙を行う、としていた。
同ロードマップを受けて、2014年7月に暫定憲法が公布され、これに基づき成立した国民立法議会(NLA)によりプラユット氏が暫定首相に選出され、9月1日、暫定政権が発足した。そして、憲法草案の審査などの役割を担う機関として国家改革評議会(NRC)が組織された。そのメンバーの任命は、NCPOすなわち実質的には軍が行った。11月には憲法起草委員会(CDC)が成立し、新憲法草案の起草を開始した。新憲法草案の起草は、2015年4月に完了した。
ここまではおおむね予定どおりに政治プロセスが進展したものの、起草された新憲法草案が非民主的であるとの批判があったため、2015年5月、暫定政権は、新憲法の正当性を得るために、2016年1月頃に新憲法の採択のための国民投票を実施することを決定した。このため、総選挙の実施は2016年9月以降にずれ込む見通しになっていた。
CDCは、NRCとの審議を経て、2015年8月22日に最終草案をNRCに提出した。これを受け、NRCは、9月6日に採決を行うことになった。
3. 新憲法草案の否決
9月6日、NRCは、反対135、賛成105、棄権7の反対多数の評決により、憲法草案を否決した。この結果、現在のCDCとNRCは解散し、新たに組織された機関により憲法の起草がやり直されることになった。
(資料1右下(2)「民政復帰に向けた新たな政治プロセス」参照)民政復帰に向けた新たな政治プロセスは、まず、①NCPOが、2015年9月6日から30日以内、すなわち10月初めまでに新たなCDCを設置する。②CDCは、新憲法草案の作成を180日以内、すなわち2016年4月までに完了する。③新憲法草案の内容が3~5か月間、国民に周知された後、2016年夏頃に国民投票を実施する。④新憲法草案が可決された場合には、1~2か月間、国王による承認の手続きを実施する。そして、⑤選挙実施に関する基本法を制定するが、これには2か月ほどかかると見込まれる。さらに、選挙実施の準備のため2~3か月が必要となる。このため、総選挙が実施されるのは、早くとも2017年春頃となる見通しとなった。
NRCが新憲法草案を否決したのは、同草案が非常時の強権を軍に認める条項を含んでおり、これに対する世論の反発に配慮したためとみられる。新憲法草案には、「国家改革和解戦略委員会」という組織の設置が定められており(資料1中央(3))、この組織は、内閣が非常事態に対応できない場合、メンバーの3分の2以上の同意があれば、内閣と国会を超越する権限を握ることができるとされていた。この組織のメンバーの大多数は、軍人など選挙で選ばれていない人物であり、軍が強い影響力を行使できるため、クーデターを制度化するものであるとしてタクシン派のタイ貢献党だけではなく反タクシン派の民主党に所属する政治家などからも強い批判が寄せられていた。国家改革評議会(NRC)は、NCPO、すなわち実質的には軍が任命したメンバーで構成されているため、可決する可能性が高いとみられていた。しかし、仮にNRCが可決したとしても、国民投票で否決されるおそれが高いとみて、多数のメンバーが反対票を投じたとみられる。また、結果として、総選挙の実施が遅れることになるため、NRCは軍政の長期化を意図して否決したのではないか、という見方もある。
4. タイの政治経済情勢
以下、新憲法草案の否決の結果をふまえつつ、タイの政治経済情勢の現状と今後の展望について述べる。
まず、タイ経済の現状は芳しいとはいえない(グラフ1)。
グラフ1:タイ 四半期毎実質GDP成長率
2000年から金融危機前の2007年までは5%以上のペースで経済は拡大してきたが、2013年以降は一時マイナス成長に陥り、平均すると2%成長程度と近年のペースダウンが目立つ。また、2014年5月のクーデターが景気動向をより押し下げたと考えられる。先日発表された2015年4~6月期の実質GDP成長率は2.8%にとどまった。
タイの経済は製造業がGDPの約30%を占めている。近年、タイの製造業のデータを見ると、年初強く、年央にかけては活動が停滞し、年末にかけて盛り返すという季節性を確認できる。この季節性を考慮すると2015年の7~9月の製造業はここ数年で最も弱いものとなり、景気をさらに下押しする懸念がある。
低調な経済活動を裏打ちするように物価も低迷している(グラフ2)。
グラフ2:タイ 消費者物価指数(前年同期比)
消費者物価指数は2015年に入り前年比でマイナスが続いている。物価低迷の背景は油価下落であるが、その要因を除いたコア消費者物価も1%程度と低水準である。経済活動の停滞が景気の体温とも言われる物価の上昇の妨げになっているようだ。タイの失業率は1%前後と非常に低いため、労働市場がひっ迫してくればインフレ圧力が掛かりやすいとは思うが、過去2年インフレ期待は醸成されていない。
グラフ3は、耐久財の売上高と自動車販売の推移である。
グラフ3:タイ 小売売上高(耐久財)と自動車販売数
小売売上、つまり消費は盛り上がりを欠いている。前政権が2012年に自動車購入について優遇税制を付与したため、自動車販売台数は一時的に増加したが、需要を先食いしてしまったらしく、その後、低迷している。また耐久財消費も、多少の振幅はあるものの、一貫して横ばいの状況が続いているように、タイの消費動向については、今のところ持ち直しの兆しを確認できる状況に至っていない。
グラフ4はタイの鉱工業生産と設備稼働率である。
グラフ4:タイ 鉱工業生産指数と設備稼働率 (2000=100)
鉱工業生産は2013年以降、ほんの数か月を除きほぼ前月を下回り続けている状況が続いている。設備稼働率も低迷しており新設、更新問わず設備投資が進み難い状況となっている。
一部では、タイ経済は先進国同様に既に成熟期を迎え、これまでのような高成長が期待できない、との指摘もみられるようになった。
観光客が戻り始め、観光収入増が景気浮揚のきっかけになると期待されたが、8月17日に発生した爆弾テロ事件の影響で先行きが不透明になっている。
このような状況において、8月23日、プラユット首相は内閣改造に踏み切った。注目されるのは経済担当の副首相に就任したソムキット氏(資料1(4))である。ソムキット氏は、タクシン政権時代に財務相、経済担当副首相、商務相を歴任し、「タクシノミクス」と呼ばれる、農村部を対象とした「草の根経済」の振興を特徴とする経済政策の推進者だった。その後、タクシン元首相とは袂を分かち、今回、内需低迷を背景とした景気悪化に強い危機感を持つプラユット首相に請われ政権入りした。また、その他の経済・外交関係の閣僚も、ソムキット氏と関係の深い実務家が多く登用され、軍人出身閣僚と交代していることから、迅速かつ積極的な経済政策の展開が期待されている。
新内閣は、早速9月1日に約4,600億円の農民・低所得者向け支援策、8日に約6,800億円の中小企業向け支援策を決定した。(資料1(5))
今回の新憲法草案の否決により、結果として、軍政が2017年まで長期化する見通しとなった。これは、経済面においては、新内閣の経済運営が安定的に継続することを意味する。暫定政権の経済運営に対しては財界から厳しい評価がされていたが、ソムキット副首相を中心とする新しい経済チームの手腕が期待される。
一方で、治安情勢については、8月17日および18日にバンコクで爆弾テロが発生したことにより、暫定政権の治安維持能力に対する信頼が大きく揺らぐことになった。20人の死者、125人の負傷者を出したこの事件は、タイ史上例をみないほど大規模なテロであり、2014年5月のクーデター以降、治安が安定していたこともあって、大きな衝撃を与えた。犯行声明は出されておらず、これまで複数の容疑者が逮捕されているが、事件解決の糸口は見えない状態である。
暫定政権の反体制派に対する強権的な姿勢は、短期的には治安を安定化させるものとして評価されてきた面もあるが、同時に、長期的には体制の不安定要因となるおそれがある。今回のテロは、そのリスクが顕在化したものとみることができる。軍政が長期化することにより、治安情勢にどのような影響が及ぶのか、今後、注視する必要がある。
以上
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